「私とニュース」記事作成1000字のサンプル掲載です。
***
最近、ニュースを見て思うことがある。政治系のジャーナリストの口からは、「事実」と「こうあるべき」が区別されずに述べられることが多いということだ。特に、悲惨な事件や災害に関する報道では絶望感を大きく取り上げ、視聴者にショックを与える。そこに「こうあるべき」を付けることで、一理あると思わせる。ネットで好きな情報を選べる時代が来たからこそ、より人々が見たくないもの、知りたくないことを知らせることがジャーナリズムの役割であると思っている節があるように見受けられる。
こうした報道姿勢は、視聴者にどのような影響を与えているのだろうか。アメリカの心理学者ケリー・マクゴニガルは、著書『スタンフォードのストレスを力に変える教科書』の中で、ニュースを見たり聞いたり読んだりすることが実は生活する中での最大のストレス源になっていると述べている。研究結果によると、ニュースに限らず、トーク番組などで「悲劇やトラウマや脅威の物語」に触れたことによるストレスは、自分の生活によるストレスと異なり、絶望感をもたらし、うつ病やPTSDを発症するリスクが高まるという。逆に、被災の後の復興や、悲劇からどう人生に向き合ったのかといった、立ち直りのプロセスに着目した「回復の物語(restorative narrative)」を報道することで、視聴者は人として成長し、何かに新しく意味を見出すことも可能になるという。さて、全く正反対の性質を持つ二つの物語であるが、共通点もある。まず、表現方法は異なるにしても両方とも「事実」の報道であるということ。そして、絶望と希望のどちらも、報道を通して人に感染するということだ。
我々はしばしば、自分が何を伝えたいか、どうしたら伝わるか、どうしたら受け入れてもらえるかに固執しがちである。説得力を増すために、事実にもっともらしい「あるべき論」を混ぜて述べてしまうのかもしれない。しかし、時々立ち止まり、難しいということはわかっていても、昇進や名声、業績、視聴率を切り離して静かに考える必要がある。それは、その事実を通して人々に何を共感してもらいたいのかだけではない。報道を通じて人々にどんな感情を感染させたいのかということを、である。
ジャーナリズムの歴史を遡ると、ローマで書かれ、前線の兵士に届けた日報にたどり着く。今日もローマは平和ですよという感情が伝わることが、どんなに彼らの励みになっただろう。ジャーナリストの役割も大切だが、伝える相手が感情を持った生きた人間であり、誰しも喜んで絶望を感じたいと思っているわけではないことを忘れないようにしたい。