中学校や高校の頃、魔法の言葉「知りません」「分かりません」を濫用した経験がある方は多いのではないか。私も「分かりません」は高校時代まではよく使っていた。勿論、予習をやってこなかったことを露見させないためにである。
子供の頃は逃げるのに有効だが、大人になると「私はこれ以上の努力をしませんでした」というサインを自ら発していることになってしまう。だから、「分かりません」の代わりに、「よく分からなかったのですが、私はこういう感じのことだと捉えました」「もしかしたら違うかもしれませんが、この部分はこのようなことだと思って読み進めました」という表現をすると良い。
そうすれば、正確にはわからなかったが自分なりに考えて努力したことは相手に伝わる。考えたことが合っていれば相手は同意してくれるし、間違っていれば訂正してくれるだろう。自分の推測を、仮説を述べることを躊躇ってはいけない。
なぜなら、高校までの学習では「答えは一つ」だったが、大人の世界では「答えは一つとは限らないし、何が正解かは人や場面により大きく異なることさえある」からだ。考えることが最も大切で、合っているかどうかは二の次なのである。
×「分かりません」
○「私はこういうことだと考えました」分からない状態
↓
疑問を解決してくれそうな本などで関連知識を得る
↓
関連知識から推測し、仮説を立てる
小難しい事が嫌いな人はここで閉じて貰って構わない。
私が今日このテーマについて執筆しようと思い立ったのは、ある先輩のおっしゃることに納得がいかなかったからだ。ある先輩は「全く何も分からない状態でも、仮説を立ててこうではないかと自分なりに表現することが大切だ」とおっしゃっていた。
私は概ねこのご意見に賛成だが、「全く何も分からない状態」…本当に言葉通りの「全く何も分からない状態」でも推測し仮説を立てることが出来るのだろうか?
私は先輩にこう反論した。「確かにそれは大切です。しかし、仮説を立てるための知識が全く無い状態では立てように無いと思います。ですから、まず最初に、完璧では無くても良いからいくらかの知識を入れることが必要だと思います」。
それでも先輩は持論を語ってきた。「明治時代、学者達は確固たる翻訳の例がない中、ああでもないこうでもないと言いながら仮説を立ててきた。だから全く何も分からない状態でも仮説は立てられる」
本当にそうだろうか…。これは違うと思う…。
例えば。以下のような会話があったとする。
A「りんご、みかん、ぶどう、もも。次は『さ』だよ」
B「さくらんぼ!」
<< これは、Bが、りんごからももまでを果物名だと認識できているから推測できることである。では次の場合はどうだろう? >>
A「マーシャル、トーニ、スティーブン。だけどやっぱり多く見るのは『ス』から始まる…」
B「当然スカリアでしょ」
Bが当然と言えるのは、マーシャルからスティーブンまでが合衆国最高裁判所の判事の名前だと分かっている場合のみのはずだ。普通はさっぱりわからない。わかったら怖い。ちなみにスカリア裁判官(Justice Scalia)は、英米法の文献を読んでいれば必ずどこかで出会うほどの有名人である。
このように私は、先輩が言うような言葉通りの「全く何も分からない状態」では推測を立てることもできないし仮説なんて立ちっこないと思うのである。
先輩の言う「全く何も分からない状態」というのは、その、明治時代のお偉い学者さんたちの例を使って考えても、彼らは本当の全く何も分からない状態ではないと思われる。societyが日本語では何かわからなくても、英語におけるsocietyが何かわかっていれば仮説を立てることは可能だった。日本語においてsocietyに当たる言葉が存在していなくて困っていても、外国語ではそれが何であるかを理解していた。つまり、「全く何も分からない」わけではなかった。
だから、本当に何も分からないのでは推測どころか仮説なんて立ちようにないと私は思うのである。何も分からなくて立てる仮説は、合理的な仮説では無くて、ただの妄想である。ス…ストレート!とか、ス…スパゲティ!とか。これは仮説では無い。ただの妄想だ。論理的整合性が皆無な仮説はただの妄想だ。幼稚園児にも出来る。
先輩は何も分からなくてもとにかく仮説を立ててみろというが、それは「世界の真理と繋がった超天才」ではない私には不可能なので、先輩と別れてから私は早速図書館へ行った。
…ん?改めて考えてみると、何も知らないのに語ることが出来る…それはもはや予言のレベルじゃあないか?