今日は、「やればできる子」といわれ続けて疲れた少年のお話です。
なんでやらないの!と言う代わりに、やればできるんだからやりなさいよ!と言うようにした親がいた。
親も、先生も、その少年ができない子だとは全く思っていないし、実際彼は好奇心旺盛で嫌いな科目もなく、能力がないわけではなかった。
だから、親よりも昔から、「君はやればできるんだからやろう」と声をかけ続けていた。
でも、彼は周りから見たらどうもやる気がないし、いつまでも「本気を出さないようにみえた」。
いったい、彼には何が起きていたのでしょうか。
周りからみたら「やればできるはず」の子
どうしてできないのと言われるよりは、やればできるといわれるほうがいいです。
そりゃあそうです。ですから、周りも彼にはやればできるんだからやりなよと言っていました。
少年も、数年前までは、俺やればできるし、と調子こいたことを言っていたものです。
しかし、いつだったかはわかりませんが、彼は、やればできると励まされたとき、
「いや、実は俺、みんながおもっているよりできないんですよ」と答えました。
つまり、周りはまだまだ本気を出していないと思っているのですが、彼は割と頑張っていたそうなのです。
割と頑張っていたといいますが、問題集は3週していないし、部活の時間も削っていないし、周りからみれば全然頑張りが足りていません。
周囲の基準では頑張りが足りていない彼ですが、甘っちょろい思考で育ってきた彼としては、彼の中では割と頑張っていたのだそうです。
それでも、思ったよりも点数がとれなかった。
だから、彼は、「やればできるってみんないうけど、俺は本当は、みんなが思っているよりできないんです」と口にしたのです。
「やればできる」の呪い
やればできる、と言われ続けていた彼は、頻繁に、「やっていないからできないのだ」と言われるようになりました。
そうして、いろいろやってみるのですが、できないのです。
(いろいろやってみるの頑張り具合は、本人が甘っちょろいので実際はそうでもないかもしれませんが、本人的には頑張っているのです)
そして、周りから期待される自分と、実際の自分のギャップに苦しむことになってしまいました。
やればできるはずだ。やっていないからできないんだ。やるんだ!
↓
やってみたけどできない…
↓
いやいやまだまだ足りない。やっていないからできないんだ。やるんだ!(以下ループ)
でも彼の本音を本気で信じる人はあまりいないでしょう。
まあ、まだまだ世間基準では甘いから、やり足りないのは当然で、もっとやれと言うのが普通です。
……ある頃から、もともと口達者な彼がますます口達者になってきました。
皮肉に対して驚くほどポジティブに返したり、うまいことを言おうとしてくるのです。
もしかして、論点をずらそうとしているのではないか?もしかして、話を流そうとしているのではないか?私はそう感じました。
そこで、自分はできると思う?と尋ねてみたところ、みんなが思っているよりできないんですよと答えてくれたわけです。
できない自分を認めるところから再出発しよう。
彼は、みんなから期待される「やればできる自分」と、
本当は「やってもみんなが思っているほどはできない自分」との間で
板挟みになってしまっていました。
そこで、私は、できない彼を認めることにしました。
できることを前提に、やればできるんだといってそこに戻していく方向で考えるのではなく、苦しいことですが、彼自身の能力が低いこと(自己申告ですが)を認めて、そこから出発することにしたのです。
能力が7であることを前提に7がとれるのだと思うのではなく、自己申告の能力=5を基準に、能力を5から7に伸ばす方法や、テクニックなどで補って5+2で7にする方法を検討することにしました。
子供の「自我」の発達
いままで彼は、自分も頭がいいと思いたかっただろうし、周りも彼を頭がいいと思いたかった。
しかし、素直な甘えん坊である彼は、コツコツと努力を積み重ねることも、ずるがしこく点数を稼ぐこともできなかったのです。
周りが、本当はできるはずだ、おまえはできる子なんだ、いまはやっていないだけなんだ、と言われることにぬるま湯というか安心感を感じていたのではないでしょうか。
これはあくまで私の主観です。
ところが、年齢もあがるにつれて、周りにそう言ってもらえることが安心感ではなく、どこか、自分の中で苦しい物になっていったのではないでしょうか。
できない自分を素直にさらけだせない状態になってしまっていた。
まあ、いままで散々できるできると思わせていたのだからそこは多少自業自得です。
私がおもしろいと思ったのは、彼の「自我」の発達でした。
いままでなら、それこそ、冗談で流したり、やっていないからできないというふりを続けていたに違いありません。
でも彼は、できない自分がいることから目を背けることをやめたのです。
いままでは、できない自分を見ずに、周りのおだててくれる言葉に乗っかってなんとなくギリギリを抜けて生きてきた。
けれども、今は、本当はできないんだということをわかってくれない周りとの付き合いに少々の疲れを感じているように見えました。
上で述べたように、散々やってないからできないんだと思わせてきたのだから、本当にできないんだと思ってもらえるまでは時間がかかるでしょう。
なぜ、彼は、やればできるふりをやめて、本当はできないんだということにしたのか、そこはまだ私にはわかりませんでした。
もしかしたら、ふりではなくて、幼心では本当にやればできると思っていたのかもしれません。
どちらであるにしても、彼の中で、子供から大人への成長が始まりつつあり、今彼がどのように自分に向き合って、自分に合った方法で望む結果を手に入れていくかが、今後の彼の人生の大きな核となるのではないでしょうか。