まじめにやるのになぜか成績が平均前後の子には「努力」ではなく「能力」を伸ばす教育を

どうしてこの子はこんなに勉強しているのに点数が低いんだろう?

先生をしているとそう感じることが結構多くあります。

努力しているのに人よりもできないのはやっぱり才能の壁があるからなんだろうか…?と。

でもそれを全て才能のせいにしないで、もっと効率よく伸びる方法があるはずだ、と私は思います。

まじめにやるのになぜか成績が平均前後の子

最近こういう子をみかけます。まじめに解いてて偉いんです。

やれよって言わなくても問題集やってる。本当に偉い。

周りの大人から見ると、「成績は心配だけど、真面目にやってるので、いつか結果がでるだろう!」なんて思ってしまう…。

なのに、フタをあけてみると…テストが返ってくると、イマイチ振るわない。なんなんだろう。

それで、何人かそういう子を分析してみたところ、いくつかパターンがあることがわかりました。

①やり方が正しくない

数をこなしているが、本質的に理解できていない場合です。

例えば、因数分解では、次数でルールが存在しているが、それを知らずなんとなくで挑んでいる。

例えば、食塩水ですぐに天秤を使い、天秤が使えない問題はあきらめてしまう。

なんとなく解けなかったものを「できるまで正しいやり方でやり直さないこと」が、点数が伸びない原因です。

②性質上不得手(ADHDやADDなどの学習障害)

性質上不得手……本人の持って生まれた性質として不得意な場合。

これは、例えば能力テストをした時にADDなどで極端に記号や数字が不得手であると判断されるような場合のことです。

本人の努力がどうだろうと、性質として不得手なのだと…不得意なのだと科学的に証明されるような場合があります。

この場合も自分を責めるのではなく、別の方法で補うなど、自分を認めた上での方向転換が大切です。

 

言語能力は優秀なのに記号が苦手な友人の例

私の友人に、とてもコミュ力が高く文系科目で優れた力を発揮できるのに、なぜか数字とか記号とか地図とかがとても苦手な人がいます。

とりわけ地図や方向がダメで、自分の普段暮らしているエリアでもたまに迷子になる。スーパー迷子です。

彼女は長年自分がダメな人間なのだと思っていたそうですが、一念発起して大人になってからテストを受けてみたところ、なんと「記号」の項目が極端に低く、学習障害であると判断されたのです。

そして、言語処理などは平均よりも高い数字を叩き出していて、低いのは記号など一部の数的処理の分野だけでした。

これを知ってから、自分はダメなんじゃなくてそういう性質なんだ!と彼女は開き直るようになっていきました。

これが、自分を責めるのではなく、自分を認めた上での方向転換なのです。

 

③同じ問題しか解かない

女の子に多いのですが、同じ問題集を4周して丸暗記しているがテストではできないという。

元から根性があってスポーツ系の部活や音楽系の部活の子にみられる傾向でもあります。

とにかく数をこなして身体に叩き込め!という訓練に慣れていることが特徴です。

ところが、ちょっと違う問題がでるとできない。焦ってしまう。

数字がちょっと違っただけで焦ってしまってできなくなってしまう。

これは簡単で、別の問題集を何種類もやらせると解決することが多いです。

④自分はできないからと決めつけている

どうして、できるまでやらないの?とやり直しするように勧めると……

どうせ自分はできないから~と決めつけている場合があります。

三回やり直しさせればできるようになるので、本人も驚くことがあります。

「あっ、できるんだ~…???」みたいな。

こういう人は本当に多くて、

できない自分を確認してしまっているといったほうが正しいです。

最初に自分はできないと思いこんでいるので、やり直ししてもできるようにならないと決めつけてしまっています。

だいたいの場合、できないと決めつけてしまっている原因は、

親から他人と比較されて苦しい思いをしたり、先生からおまえには才能が無いと言われてしまったからとか、外部的要因が多いです。

こういう人は、まず、自分はできないのだという最初の前提をひっくり返しましょう。

私は○○ができた、という小さな成功体験を重ねるのが良いです。

例えば白地図で成功体験を得る勉強方法はこちらです↓

子供に宿題をやらせるには~意欲編~ 「成功体験」を積み重ねろ!

2014.09.03

⑤復習のやり方や効率が悪い

例えば、単語を覚えても覚えられないという男子。

勉強法はターゲット1900のような単語本での暗記とノートへの殴り書きのみ。

実はこの勉強方法では、覚えられていない単語に集中することが難しくなります。

×をつけた単語を探し出してそれだけを練習することが大切なのですが、どうしても範囲の最初からやり直すことになるのです。

そこで、単語カードにしてみたら、できないものがたくさんでてきました。

目で見てわかる量だから、カードはわかりやすいのです。

とにかく覚えるまで徹底的にやり通したら、三回やればさすがにだいたいのカードはできるようになっていました。

ところが、来週までなにもやらないとまた少し退化します。

適切な間隔で、できるものは一週間後とか、できないものは帰宅したらすぐでしかも毎日とか、ちゃんと分けて効率を考えてやらないといけません。

でも、目に見える量になったことで、自分がどの単語を学習すればよいのかを管理できるようになったことが大きな進化でした。

他には…塾に何時間も拘束されている女子。

すごい勉強しているなーと思うのに成績が伸びていない模様。

どうやら確認してみると、範囲をカバーすることを優先してしまって、できなかったものを復習することが後回しになってしまっていました。

こなすので満足してしまって、復習できていないし、できなかったものをできるようにしなければいけないという意識もありませんでした。

意識を「こなす」から「点数をとる」に変えたことで、成績が変わっていきました。

勉強時間をとっているのに成績が伸びない。なぜ?

2018.03.03

天才と才能と努力の違い

前、この記事で天才と才能と努力の違いについて書きました

天才と才能と努力の違い

2018.03.12

天才は「見えない的に矢をあてる」能力をもつ者。才能は「見える的に矢をあてる」能力のことらしいです。

本質的に理解するスピードが速いのは才能ですよね。努力は能力とは別にあると思う。

というわけで、成績に反映される要素の計算式はどんなものだろうと考えてみました。

成績に反映される要素の計算式

能力×技術×努力±運=成績?

※努力=正しいやり方×効率×時間?

能力

本人のもつ潜在的な才能です。天才は天才的な才能を持っているから、能力が高いことになるでしょう。

遺伝的な要素も大きく、養育環境はそれにも増して大きい。

小さい頃から本を読んでいれば国語力が高くなるし、理系一家であれば数的処理の能力が高い傾向にあります。

技術

本人の才能とは別に、テクニックで補うものを指します。

例えば、読むのが遅い場合、漢字にだけ集中して送り仮名には集中しないで読むようにすると素早く読めます。

それは技術で補っているといえるでしょう。

元々の能力が低くても、テクニック…あとは、文明の利器で補うこともできます。

まっすぐ線を引けないなら定規を使えばいいし、計算が遅いなら高級な計算機を使って複雑な計算を補うことができます。

ここでは、持ち込みが可能かどうかは別問題です。

努力

例えば、ミスをしないようにこまめに見直しをするとか、テストで出る範囲が決まっているから問題集を徹底してやりこむとか、そういったものです。

才能や技術とは別に存在し、正しいやり方×効率×時間によるところも大きいです。

適切ではない問題集をやりこんでも結果には結びつかないので、やはり正しい方法である必要があります。

効率が悪ければ努力の数字は伸びません。時間だけが延びるだけです。

時間はやはり、他のものが他人と差がつかない状況では一番工面しやすいものです。

最後に、運です。

運はかけるのではなくプラマイだと思います。

どんなにダメダメでも運さえよければというわけにはいかないので。

なお、この計算式はコネや人柄、さらには相手側の要素が大きく生きてくる就職や院進学には通用しないと思います。

「努力」ではなく「能力」を伸ばす教育を

こんな年になってから気づいたのですが、日本はみな「努力せよ」と言い過ぎです。

「能力を高めよ」というべきなのです。

努力でなんとかなるレベルはそりゃあります。

しかし、能力が3で努力が10=30と、能力が5で努力が6=30は一緒になってしまう。

なら能力がもっと伸びればいいじゃない。

努力が10以上にいくのはちょっと、ご飯削るとか、寝る時間削るとか、そういうほうにいってしまう。

寝る時間を惜しんで勉強するのはいいけど、それ以前に能力がもっと高くなれば短時間で効率よく成績を出せるのではないだろうか?

もしみんなが努力していたら差はつかない

なぜそんなことを考えるようになったのかというと、私は博士課程で研究していたので、「すでに努力はみんなしている」んですね。

何言語もスラスラ使えてしまう天才もいて、そういう人が努力してないかといえばしている。

コネを沢山もっている愛されキャラがいて、努力もしている。

努力はみんなある程度以上しているんです。

だから、努力だけでは超えることができない壁があるのです。

その分野にやたら才能があるやつがいれば、努力をしたところで勝てません。

ならば、自分も不得手な分野で努力して勝負するのではなく、得意な分野で才能を生かして勝負すればよいのです。

だから、

能力×技術×努力±運

の、努力以外のところ…

能力!

技術!

運も!笑

努力以外の所をもっと高めることも、

もっと考えたほうがよいのではないでしょうか?

勉強時間をとっているのに成績が伸びない。なぜ?

2018.03.03

おまけ 文章を書くことに困らなかったある大人が子供だったころの話

例えば、国語の記述なんて、才能が大きく基礎に根を張っています。

幸い、わたしは生まれてこのかた、文章を書くことに困ったことがありませんでした。だからこんなブログも書いているわけですけど、この能力がどこで培われたのだろう?と振り返ってみると……。

まず、両親には日記をつける習慣がありました。必ず十年日記がリビングにありました。

私もですが、両親も、例えばゲームをするときはメモをしていました。

攻略本にこの宝箱にはキメラのつばさが入っていた、とか書いていました。先にボスを倒した人が倒し方を書いておいたり…。

あとは、祖母が文章が大好きで、しょっちゅう葉書を送ってきたので返事を書いていました。

祖母は俳句が趣味で、たくさん俳句を書いては紙に書きためて、あったときに見せてくるのです。なつかしい。

さて、幼稚園児~小学校低学年のころ、ドラクエ3をやりながら、自分のプレイ日記を書いていました。
くだらない字ですが、ちゃんと物語調で書いていたようです。
父親が会社からもらってきたいらない手帳のメモスペースをすべてくだらない落書きと物語…つまり絵本のような物語で埋めていました。
もともと物語が好きで、親はもっとマシな本を読んでほしかったようですが、物語ばかり読んでいました。そのせいでしょうか?

それから、昔からなぜか話をするのが好きで、よくどこからか仕入れたくだらない話を人に話していました。
これは、どうやら叔父と似ているようで、叔父は演劇が趣味で友人となにかやっては語り部などをやっていたようです。

小3のころ、担任が全員と交換日記を始めました。

38人全員に終礼でA6~B6サイズほどの日記に一日1ページ書かせて提出させ、すべてに一言コメントを書いていたのです。なんて労力!すごい…
そのころ、私は先生からいいコメントをもらおうと話のネタを集めては書いて、時々クイズを作って先生を困らせたりしていました。

例えば、「1階は滑り台、2階は冷蔵庫。これなーんだ?」とか…。うん、答えは自動販売機なんですよね…。先生は「おてあげ。むずかしいね」とかいてました。ドヤ顔でしたね私は。やめろよ9歳…。先生を困らせてやるなよ…。

小4のころ、部活動で絵本を作り始めました。A4コピー用紙を半分に折ってつなげて作るだけの本ですが、なぜかシリーズものを37巻くらいまで書いていました。
それをいやな顔をせず毎回読んでくれる友達がいました。友に感謝しなきゃいけませんねほんと…。

親も、大量に白い紙を消費しているのに、広告の裏を使えとは言いませんでした。計算用紙には広告の裏を使えとは言われましたが。
やはり、作品だから、広告の裏じゃみっともないだろうって思ったんでしょうか。理解がありました。

で、振り返ってみると、親も先生もだれも、私に書くなともいわないし、下手だともいわないんですね。
本当にくだらないものをかいていたのに(苦笑)、かくなっていわなかったんですよ。ありがたいものです。

そういう環境もあって、高校のときは演劇の台本を書いたり、小説を書いたりしました。
毎日部活で楽器を演奏して、貴重な時間はそういうものばかりやって、勉強をおろそかにしたりしていたのに、それをするなとはいわれなかった。
誰も周りの大人はそこを否定してこなかった。ただ、やることはやりなさいと言われた…(高校の先生ごめんなさい…)

もう、過ぎてしまった幼い頃の時間は取り戻せないから、わたしだって、幼い頃に剣道とかバイオリンとかやってみたかった(実際は水泳とピアノをやっています)。
ただ、幼い頃って、よくわからないけど楽しいことを素直にやっていたと思います。
それを責める人がいなくて、むしろそれをもっとやれと見守ってくれる人がいて、さらに楽しみにしてくれる人がいたから、それについてだけは自信をもって生きてこられた。

能力って、まずそこからなのかもしれません。

興味をもつ。なんだかわからないけど楽しい。もっとやりたい。
あこがれる人みたいなすごいやつをやってみたい。そして努力する。
そうやっているうちに、苦行じゃなく能力が伸びていくのだと思います。

それは大人になってもきっと可能なことだと思うんです。まあ、大人の能力開発はちょっと脇に置いておくとして。

大人が子供のためにしてやれる大切なこと

それは、彼らの「すき」を否定しないことです。

「すき」を育んで、暖かく見守る。自分の思うとおりの作品(こども)にならなくても、否定せずに育てること。

自分を基準に子供を理想的に育てようとするのではなく、子供の目線でその子に必要なことを、先に生きてきた者として教えてやること。

それが、先に生きてきたもの、先生、じゃないでしょうか。親は、子供の、一番最初の先生であり、一番大切な先生なのです。

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